法華経編 / 三説

 

 

「誰もが、神ほとけの一人子」

 

 

 

心の本質に目覚める

 

法華経には子供の話がよく出てきます。

華厳経も「善財童子」という、少年が主役です。

それは、人を仏の子というふうにみるからです。

 

例えば、初期のころの経典に、こんな言葉があります。
それは、「仏性を“一子地”と名づく」です。

 

その前に、「仏性すなわち如来なり」という言葉があるんですが、

「如来」とは、「真如から来た人」という意味で、仏さまの別名です。

 

仏教では、宇宙全―の霊的存在を、「大日如来」とか「阿弥陀如来」と表現します。

どちらも、同じ存在ですが、別の名前で表現しているのです。

(これを同体異名といいます)

 

「仏性(ぶっしょう)」とはすなわち、私たちの心の根底にある、存在の本質本性です。
さらに言うならば、仏性は、宇宙いっぱいに広がる空(くう)の心です。
そして、それを、"一子地(いっしじ)"と名付ける。「地」というのは心の境地をさします。

 

わざわざ“一子地”と呼ぶのには理由があります。
それは、誰もがみんな、一者(神ほとけ)の一人子であるということです。

 

だから、宇宙いっぱいに広がる心(仏性/本質)に目覚めるとは、

自分が如来の一人子であるという悟りでもあるわけです。

 

自分一人は、無限の宇宙からすれば、ゴミのように小さな存在です。
「しかし、一人子」というほどに神ほとけに大切にされている。


それにしても、一体なぜ、「仏性」が「一子地」なのか?

それは、大乗仏教の「一即一切」の哲学によります。


一即一切とは、たった一つの存在の中に、すべての宇宙が宿っているということです。

ということは、宇宙大霊のすべてが、一つの存在の中にあるということ。


そういう意味でも、誰もが如来にとっては一人子である。

そして、こうした悟りが基本にあって、仏教の初期経典に

「仏性すなわち如来なり」や、「仏性を一子地と名付く」という言葉が出てくるのです。
だから経典にも、「信心がすなわち仏性であって、仏性がすなわち宇宙一切の如来である。」となっています。


しかし、この「信心」とは、宇宙一杯の心に目覚めるということであって、

何か団体や教祖の説く教えを信じ込むことではありません。


そして、この境地に入ることは、神ほとけの一人子であるという

自覚が生まれることですから、「一子地」とも言うのです。

 

 

 

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