法華経編 / 一説
小説、火宅の人
法華経に「火宅の人」の話が出てきます。
映画化された檀一雄の小説の題名になったけど•••。
小説の方は、私小説のようなものです。障害を持つ子供を含む、5人の子供の父親。
大酒をかっくらい、劇団の女優を愛人にし、ほっつき歩いて家に帰らない男。
檀一雄自身の話です。
さて、太宰治は小説で、
“最後に残った友人は二人で、三馬鹿と呼ばれた”と書いています。
その内の一人がこの檀一雄。もう一人は坂口安吾でした。
三人とも、むちゃくちゃやる無頼派なんです。
そして太宰はキリスト教に向かい、ユダの小説を書いたりしています。
一方、安吾は、このペンネームのからも、宗教指向は一目瞭然。
「安吾」とは、お釈迦さまの時代に、雨期と夏の一定期間、
修行者が僧院に住んだことを言うのですから。
そして「火宅の人」が檀一雄の小説のタイトルということは、
日本の代表的無頼派三人の小説家が、そろって宗教指向を
持っていたということです。面白いですね。
まあ、自己破滅的な無頼派も、自己を滅するために厳しい修行をする宗教者も、
その精神構造は、紙一重と言えるのかも知れませんが。
もっとも、小説「火宅の人」は、元の法華経の話とは、ちょっと違います。
さて、オリジナルは、以下のようなものです。
「子供たちが、家の中で遊んでいる。
家に火がついて火事になっているのにわからない。
火勢は強く、もうじき出られなくなりそうだ。
そこへ仏陀がやって来て、“外に、面白いオモチャがあるよ!”と手招きをする。
子供達は、面白そうなオモチャにつられて外に出て、焼死から助かる」
というものです。
ここで出てくる「家」は自我を表します。
例えばユングの夢分析でも、部屋とか家は内面を表すと言いますよね。
子供達は我々。地位、名誉、財産が、あたかも人生の一大事であるかのように
思い込んであくせくし、エゴのゲームで遊んでいるのです。
そして、「火」は生死(しょうじ)です。
子供たちは、火事になって、今にもたましいが、
エゴの炎で死にかけているのに気づかない。
やがては、寿命が来て、自我から脱け出すチャンスを失ってしまうのに、
それがわからない。
本当は、私たちが、人間として生まれたのは、
閉鎖的自我性を乗り越えるという学び(修行)の機会を与えられた。
そういうことなんです。
にも関わらず、せっかくのチャンスを逃そうとしている。
やがては死の国へと旅立ってしまうのに。
そこで、仏縁ある人には、善智識(悟りへと導く人を、
仏教ではこう呼びます)と出会うようべくアレンジされます。
そして、自我と戯れるよりも、もっとおもしろい世界があると誘ってもらうことになります。
子供(私たち)が、“そうか、家(自我=地位、名誉、財産)の外には、
もっと面白いもの(素晴らしい世界=彼岸/浄土)があるのか”と思う。
そして、最初は何が何だかわからないけども、
修行して、家から出て自我の呪縛から解放される。
これが「火宅」の例え話です。
すなわち、“人生は、火がついた家に住んでいるようなものだから、
一刻も速く自我(家)から脱け出すんだよ”と勧めてくれているのです。